おやひこさま

彌彦神社氏子青年会賛助会員 高橋 秀徳

 

日本海を背にした霊峰弥彦山の麓で、越後平野の扇の要。そこは、越後一之宮・彌彦神社のご祭神天香山 命(アメノカゴヤマノミコト)、別名高倉下命(タカクラジノミコト)の鎮座地であります。

天香山命は、天照大神(アマテラスオオミカミ)の皇曾孫(弥曾孫)。

祖父は天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)

祖母は萬幡豊秋津師比売命(ヨロズハタトヨアキツシヒメノミコト)

父は天火明命(アメノホアカリノミコト)、別名饒速日命(ニギハヤヒノミコト)。
母は天道日媛命(アメノミチヒメノミコト)
妃は熟穂屋姫命(ウマシホヤヒメノミコト)饒速日命と御炊屋姫命(ミカシヤヒメノミコト)の子。

2代は天五田根命(アメノイツタネノミコト)武呉神社(第1嗣)

3代は天忍人命(アメノオシヒトノミコト)船山神社(第2嗣)

4代は天戸国命(アメトノクニノミコト)草薙神社(第3嗣)

5代は建筒草命(タケツツクサノミコト)今山神社(4代の甥)

6代は建田背命(タケタセノミコト)勝神社(4代の孫)

7代は建諸隅命(タケモロズミノミコト)乙子神社(第6嗣)

高倉下命(天香山命)は、神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)後の神武天皇の御東征に先立ち、紀州(現在の和歌山県)熊野におられました。磐余彦尊が賊軍に苦戦されているとき、高倉下命はお告げにより、布都御魂剣を奉り大功を立てられた御方です。

磐余彦尊が大和の橿原の宮で神武天皇として即位されてより4年後、越後地方開拓経営の勅命を奉じて、米水浦(ヨネミズガウラ)現在の三島郡寺泊町野積浜にご上陸になり、そこで漁民たちに海水を炊いて塩を作ること、網や釣針を使用して魚介類を取る方法を初めて教え授けられた。漁民たちから手繰彦命ともよばれていて、現代の漁法によばれる手繰網の発祥の由来でもあります。

さて、天香山命は上陸地の野積浜から弥彦山脈中の峠を越え、ひとまず桜井郷、現在の弥彦村麓に留まり、やがて弥彦に居を定められて、稲作を始めあらゆる農耕の道と数々の産業の基礎を教え授けられたが、人皇第6代孝安天皇の御代元年2月2日に神去りました。

御祭神と6代の御子孫も代々その偉業を継承され、越後地方全域の開拓を進め、人々もまた力を合わせて、ついに現在の新潟県産業文化の基礎を造りあげられたのです。